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委員長挨拶
渡邉純幸師

 

 

 

 

日本キリスト教連合会

 委員長 渡邉 純幸

思いやる心

 連日のように報道されている「いじめ」問題。悲惨な状況が報道されるたびに、目を覆いたくなるような陰湿さに、誰もが痛みを感じていることでしょう。「相手を受け入れる」「赦す」「相手を思いやる」は、キリスト教の専売特許のようにも思えますが、同時にその難しさを知らされます。
 熊本にある九州学院の元英語教師の谷口恭教先生が、こんな話を記しています。
 ある冬の放課後のことです。ある紡績会社の人事部の人が、谷口先生を訪ねて来ました。野球部員で就職を希望している人はいませんかという話でした。高校三年生の人はほとんど大学受験に出かけ、就職希望の人が残っているか分かりません。そこで早速監督に電話すると、「もうあらかた進学も就職も決まっています。ただ一人だけ残っています。でも、会社の野球部の戦力としてお使いになるのなら、彼を推薦できません。彼は三年間補欠で、いっぺんも試合に出たことがありませんから」と。それを聞いた会社の人事部の人は目を丸くして言いました。「そうですか。三年間もベンチを温めて、一度もバッターボックスに立たなかった。よく辞めないで……、辛いこともあったでしょうに。ええ、その方、うちの会社に来ていただきましょう。なあに、野球部だけを強めようとは思っていません。私は将来、我社を支えてくれる人を探していたんです。この人なら幹部候補になります。その人は、涙を知っていますよ。」彼の就職は即座に決まりました。(『生きるっていいもんだ』より)
 人の目にはネガティブの評価で映るものも、見る角度、立場を変えれば、それは別の評価にもなり得るようです。出番のなかった野球選手も、見る人の目から見れば、大きな出番となったのでした。すると「いじめ」の問題にも光が見えないでしょうか。いじめは、ある意味では、「場所の喪失」と言えるかも知れません。しかし、キリスト教が、聖書が語るところは、場所の回復、救いであることを思えば、何人も見過ごされることはありません。私たちはいつ、どのような形で場所の喪失者になるのか定かではありませんが、その側に立ったときの痛みを共有したいものです。そして、掛け替えのない一人であることを誰もが評価できる、そんな「相手を受け入れる」「相手を思いやる」心を取り戻したいものです。

 

 

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